2017年8月29日火曜日

朝食

少し遅めの日曜の朝食。今日もイキが良いのを!カワセミです。
とりさんも例外ではありません。目が決まると気持ち良いショットになります。他の動物もそうですね。もちろん人間も・・・。
えっ?これは目が決まっていないではないかって?よく見てください魚の目が決まっています。

ごちそうさまでした。
さておかわりを・・・。

実は以前このようなカワセミが来そうなところに煮干しが置かれていたことがありました。さすがにカワセミは一瞥もせず。そのまましばらくそこに置かれたままでした。

2017年8月28日月曜日

水面を走る!

それは突然の出来事でした。カルガモのおちびちゃん。何を思ったか池の水面を猛然とダッシュ。かなりのスピードでした。
さすがに水しぶきが邪魔して時々ピントが外れてしまう。
まるでモーターボートのよう。

まだとても飛ぶことはできないけど、このスピードだったら天敵から逃げるに充分かも。

2017年8月27日日曜日

大空を夢見て(その2)

カルガモのおちびちゃんの続報。ぐんぐん生長中。親鳥の2/3程度の大きさになってきました。おそらくここまで生長すればアクシデントに見舞われる恐れはかなり減ってくると思います。今日は池の水面で羽ばたきの練習。



 まだまだ小さな翼。でも風切り羽がはえてきていますね。
 えっ。このひねり技は何?
残念。飛べない・・・。




2017年8月21日月曜日

(番外編)一ヶ月早い

「寒さの夏はおろおろ歩き」とは宮沢賢治の誌の一節。長雨、北東気流。いわゆる山瀬という気象現象にたたられ続けている今年の8月。一月も早くヒガンバナがかなり咲いてきてしまいました。

ちょうど開花期を迎えた田圃の向こうにはまだアジサイの花が残っています。こういう季節の乱調。この自然から恵みを受けて生業を営む身の上だったら、まさに「おろおろ歩く」気持ちになるでしょう。


しかし宮沢賢治は「アメニモマケズ カゼニモマケズ・・・」そういう人になりたいという願望を持った人だったのですね。

2017年8月20日日曜日

大空を夢見て

カルガモのおちびちゃんです。



まだ飛べるようになるには随分時間がかかると思います。頑張れ!

2017年8月17日木曜日

里山は幻想か

雨が降ってきてしまいました。今年のお盆、関東地方は天候不順に泣かされました。だから、というわけでは無いですが、少しだけ物思いにふけってしまいました。そもそも今の時代に里山って成立するのだろうか、と。

慶應義塾大学、清家塾長(当時)

少し前、慶應義塾大学の清家篤教授の講演を聴きました。なぜ少子高齢化は起きたか。先生の労働経済学の視点から。 「昔は子供は生産財だったのです。子供が居ることで労働が出来る。そしてそれが稼ぎにつながる。だから子供が居ることが財を得ることに直接つながった。」と言われる。それに対して「現代は子供は消費財になった。」と。「子供は生産に必須のものでは無くなった。それ自体が財を生むわけではない。消費を生む素材になった。極論をすればペットに近い存在だ。」これは清家先生から直接聴いていただかなければ、私のような学の足りない者が伝え聞きを述べるだけでは先生の言わんとすることが充分に伝わらないでしょう。誤解を生みかねないたとえかも知れません。

しかし、昔、子供は消費財だった。それに対して今の子供の位置づけは消費財だ、というのは納得感を得ました。清家先生は、だから、よほどな経済的余裕があったり子供好きだったりしなければ子供を得る動機が生まれない。結果として少子化は必然的に起きる、とおっしゃる。


少子化と里山との共通点

かなり強引なこじつけですが、里山と子供との共通点を感じています。

昔、里山は生産財でした。里山が無ければ人々の暮らしが成り立たない。まさに人々の命を繋ぐ場でした。昨日触れたカルガモの事を思い出してください。もし、人々がカルガモを食用にしていたとします。すると仮にその雛が鯉に食われたのだとしたら、そこは積極的に自然環境に干渉し鯉を減らし、カルガモを守ったでしょう。他方、鯉も食用に、あるいはそれ以外の目的に使っていたかも知れません。すると鯉を間引くにしても一定の加減をもってしたと思います。里山の生態系が維持されること、それが人々の命にもつながっていたからです。

「おめえよぉ。タラ芽を摘んじまうのかぁ」
「そおよ。うめえからよぉ」
「ふんだぁけんどてぇげぇに(ほどほどに)しとけ。絶えちまったらあとで困まんべぇからよぉ」

こんな感じで里人も互いに互いの行動を監視しながら、里山の生態系の維持に努めていたのではないかと思うのです。この行動も集落の命を繋ぐため、まさに命がけだったはずです。過去の飢饉のおぞましい記憶を思い起こしながら。


やはり現代では里山は幻想か

では、現代はどうか。農家にしてもまさか里山からの恩恵で生業を繋いでいるケースは希有でしょう。生産財としての位置づけを失っているのです。もちろん全国を見渡せば、微視的に見れば生産財としての里山が残っているかもしれません。ですがここでは微視的な見方をするわけではありません。

現代の里山は消費財として捉えるべきではないでしょうか。里山から財を得る事は困難。むしろ、その維持、管理に財を消費させなくてはならない。子供が消費財になったのと同じように、里山も消費の場になった。そうは考えられないでしょうか。

里山、それはかけがえの無い日本の自然風景です。人と自然とが織りなす二次的な自然環境。これは日本の原風景などと称しても構わないでしょう。そのような、私たちがイメージする里山は実は生産財だったのです。だから人も命がけでその生態系に干渉し、生態系を構成する重要な一員になっていました。しかし、今日の里山はそうではありません。荒廃する森林にもそれと一脈通じる事があるでしょう。

消費財となった里山をどうやって維持して行くのか。これはその環境と関わる人がよほど強く価値観の共有を持ち、行動を起こして行く、それなくして実現出来ないのではないかと思った次第。「命がけ」の価値観と同等、あるいはそれを上回る価値観をどうやれば喚起できるのでしょうか。

昨日紹介した「二斤のパンと茹でうどん一玉」が、在りし日の里山で起きたなら、ちょっと想像してみましょう。

「おめぇよぉ。あにやってんのよ。そんなおんまけたら(ばらまいたら)池が腐っちまうじゃんかぁよぉ。いい加減にしねえかこんちきしょう。」
「・・・」
「あれぇ。おめえ、よそモンだな。とっとと出て行きやがれ。」

(私、不完全ですが西東京から奥多摩方面の言葉も一部解します。)

これが今の世の中ですんなりと受け入れられるわけありませんよね。では、どうするか。知恵の絞りどころです。


宮沢賢治は、今年のような寒さの夏は生産財の里山を前にしてどう思ったでしょうか。どんな行動をしたのでしょうか。天候というあらがえない現実の前にどう適応していったのでしょうか。そして進化を遂げたのでしょうか。

でしょうか、でしょうか、と、問いかけに終始してしまいましたね。

2017年8月16日水曜日

考えてしまったこと

三羽になってしまいましたが、カルガモのおちびちゃん達、元気です。カルガモは草食が基本。公園に生えている雑草は格好のごはんです。

くつろいでいたこの三兄弟。急に池の岸の方を見て親と一緒に泳ぎはじめました。

考えこんでしまったこと

この後の光景に私は考え込んでしまいました。カルガモの親子が岸を目指したのはある人影を見つけたからのようです。その人はレジ袋一杯にパンの耳を持っていました。おそらく近所のパン屋で無料で配っているものでしょう。ゆうに一斤はあろうかという分量です。それを池に次々と撒きました。当然カルガモたちは、この親子も含めて狂喜乱舞です。また池の中では鯉をはじめとする魚たちが狂宴状態。この人が撒き終わると、すぐそばでまた別の人がパンの切れ端を撒き始めました。これも一斤はあろうかという分量です。

鯉は口に入るものはそのまま食べてしまう雑食性があるそうです。この狂宴のなかでカルガモの雛を口にした鯉がそのまま飲み込んでしまった。そんな話しも公園の常連さんから聞きました。私が実際に見たわけでもないし、その写真を見せてもらったわけでもない。ですのであくまでも噂話の域を出ないです。しかも、それも自然のなせる淘汰だと言うべきだという議論もありましょう。(あくまでもこのような事態があったのだとした場合、これは人為的な行為の結果です。これを自然のなせる業だという考えには私は賛同しかねます)。


公園での人の餌やりなど、環境に与える影響は限定的?

私はこれまでは、公園での餌やりなんか環境に与える影響は限定的だと思っていました。子供たちに「ちょっとだけこのクッキーを鴨さんにあげようか」と、ほんのひとつまみ与えてみる。こういう事をきっかけに動物との接点が生まれ、情操教育の一助となるのなら、決して目くじらをたてるような事ではないでしょう。しかし、一日に二斤ものパンを池に投げ込むというのは話しが違います。これは生ゴミを投棄するのと本質的には変わりません。鯉が食べたとしても、カルガモが食べたとしてもその排泄物は池に溜まります。ましてや溜め池のように水の循環が弱い閉じた環境である池では、それが蓄積し、ヘドロ化します。悪臭、得たいの知れない浮遊物。昨年、この場所の一部は湖底がこのヘドロの蓄積で上がってきてしまい、税金をはたいて浚渫作業をしました。ただし、これは周囲からの土砂の流れ込みも影響しているはずです。ですからこれをすべて餌やりの結果とするのには無理があります。

インターネット上でさまざまな人のブログを見ると、この餌やりには賛否両論が両極端を含め多種見られます。私は、ごくわずかな餌やりは許されても良いのでは無いかと思ってきました。しかし、このごくわずかでもわずかな餌やりをするひとが多数いればわずかとは言えなくなるでしょう。ましてやレジ袋一杯のパンの耳を一時に与えるなど言語道断です。また「わずかな餌やり」の範囲をどう考えるか。絶望的な曖昧さがここにはあります。


餌やりは全面的に禁止せざるを得ないのではないか

この状況では餌やりを全面的に禁止しないといけないのではないかと思うに至っています。禁止すると、その事が環境に影響を与えるかもしれません。たとえば池の鯉。餌不足から小魚など口に入るものを手当たり次第に食害するようになってしまうかも知れません。その状態が安定化するまでどのような経過を辿るのかわかりません。

また、このような状況をいかに来訪者に納得してもらうかも問題です。餌やりをしている人にとって、その行為に微塵も罪悪感を持っていないはずです。良いことをしているのになぜ止められるのか、おそらくそういう印象を持たれるでしょう。そういう方にどう納得してもらうのか。

しかし、二斤のパンが撒かれた後に、今度は小学生とおぼしき少女が茹でうどん一玉を池に放り込んでいるシーンを見て、この思いを強くしました。

まずは公園事務所に見たままを報告させていただきました。

最後に満腹になってねぐらに向かうカルガモの親子でおしまい。


2017年8月15日火曜日

秋の先駆け?

カワセミの成鳥。まさに今が一番綺麗な時期です。なぜか。それは年に一度の換羽期を越して新しい羽に生え替わったところだから。オスの成鳥。イケメンというところでしょう。
真夏の日照に当たるとモミジが暑さやけで若干色づきます。ですからこれは秋の印ではありません。このモミジが真っ赤になったときにまたカワセミが飛んできてくれるととてもいい絵になるのですが、そこは相手は野山のもの。演技はつけられません。




2017年8月14日月曜日

束の間の安息

夕方、水辺の木陰にカワセミの幼鳥がいるのを見つけました。幼鳥と成鳥の見分け方。この季節だと胸の色のくすみ具合。くすんでいる方が幼鳥。それから足の色。成鳥は鮮明な赤です。この個体はまず間違い無く幼鳥だと思われます。

この場所が落ち着けるようで、羽繕いに余念がありませんでした。

そして、うずくまって、まさにお休みなさいモードですね。


しかし、このあと、バトルが起きました。親鳥と思われる個体があらわれて縄張り争いが始まりました。それもこの季節ではよく見られること。

2017年8月13日日曜日

このカメラの性能って・・・

秋霖を思わせるようなぐずついた天気がようやく持ち直した今日、ツバメが大空を飛び回っていました。親ツバメ、子ツバメの競演です。このような被写体にもすぐにフォーカスを合わせるα6500のオートフォーカスの性能はたいした物。よく見てください。ターゲット(飛んでいる虫)を見つけて急旋回しようとしているツバメです。

さらに、この被写体をロックオンしたこのカメラ。
このような状態になっても。
こうなっても。
さらにこうなってもツバメにフォーカスをロックオンしたままでした。正しくは前に被ってきた樹木に合焦出来なかったと言うべきかも知れません。
とはいえ、飛び物は苦手ですが。