2019年2月5日火曜日

食事中 ・・・給餌の是非を考える

ツグミが目の前に居ます。しきりと地面を見つめて捜し物。食事中のようです。丸い植物の種のようなものを見つけました。こういう時、いつもドキドキしてしまいます。これはこの環境に自然にあるものなのか。まさか餌付けのためにばらまかれたものではないか、と。
 私は野鳥を餌付けする行為には反対する立場を取ります。

もし餌を与える行為が人間が里山という二次的な自然環境を構成する上で必要不可欠な行為なのだとすれば、肯定するでしょう。人が自然環境と調和して、人も自然環境と共に生きていく上で必要不可欠であり必要かつ充分な範囲なのだったら給餌という行為にも合理性を見いだし得ます。そもそも里山という環境がその地に暮らす人々が生きていく上で必須のものであり生産財の一環であるのならば、人も必死で里山環境と協調していく途を探り行動するでしょう。里山環境の破壊は人の暮らしにも強く深刻な影響を与えるわけですから、人の行動の中にも自ずと自然環境を保全する知恵が反映されるはずです。日本の里山環境の誇るべき点はここにあります。

しかし今日のような経済環境下では里山に対して人が必死に働きかけ協調する動機が生まれるのは希です。里山環境は人にとって里山からもたらされるものを単純に消費するだけのもの、すなわち消費財に変質したと考えられます。仮に里山環境が危機に瀕したとしても人の暮らしに与える影響は限定的です。この状況下で里山環境の保全をはかろうとするのならば、里山環境に触れる人に強く自律する姿勢が求められます。安易な給餌のような自然環境に対する働きかけは慎むべきです。「良い写真を撮りたいから給餌をする」などは私はもってのほかだと考えます。そのような行為が無節操に拡大すれば里山環境を消費し尽くしてしまう。里山環境の破壊に繋がるリスクが見えてきます。
さて、このツグミは何を食べているのでしょうか。
これはエノキの実ですね。おそらく人為的に与えられたものではないでしょう。
えっ、そのエノキは人為的に植えられたものだろうって?

給餌の是非のような話しは単純に白黒をつけるような議論ではなく、弁証法的なアプローチが必要です。難しい議論になるでしょう。たとえば、プロの写真家が生活の糧をかけて野鳥の写真を撮るときの給餌の是非は単純に答えが出せるものではありません。プロ写真家にとって里山環境は「生産財」である可能性もあります。結果として生産財のサステナビリティーにプロの写真家は配慮する可能性も期待できます。無思慮な焼き畑農法(収受し尽くしたらそのまま荒れ放題にしてしまう)のような行動はしないだろうと期待したいところです。

とはいえそのようなプロの行動をプロ以外の人が際限もなく無思慮に模倣するような事態は少なくとも避けるべきです。ここは、時間をかけて一歩ずつ少しずつでもより適切な解に近づいて行くアプローチが必要です。特別な背景が無い人は、週刊モーニングに連載されている「とりぱん」の、とりのなん子さんの矜持が参考になりそうです。北国、雪で閉ざされる時だけ補助的な給餌をする。あくまでも餌付けをするわけではない。

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